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Rti 台湾国際放送Rti 台湾国際放送文化の台湾 - 2021-10-29_眷村文化

  • 29 October, 2021
文化の台湾
「2021 新北市眷村文化節」が行われており、新北市では今年はこれまで頑張ってきたお母さんたちにスポットを当て、敬意を表するというテーマのもとで行われている。(写真:胡璉夫人(右)と当時の中華民国婦人連合会主任委員の宋美齡・女史(左)/CNA)

今、台湾北部・新北市で「2021 新北市眷村文化節(眷村文化フェスティバル)」というイベントが行われています。このイベントは、台湾の人たちの懐かしい記憶である「眷村文化」を紹介していて、今年はこれまで頑張ってきたお母さんたちにスポットを当て、敬意を表するというテーマのもとで行われています。

この“眷村”ですが、英語では「military village」と呼ばれています。つまり、“軍人村”─。

75年ほど前、中国大陸から台湾にやってきた軍人たちが、安心して戦い、防衛するために仮設住宅がいくつか建てられ、その家族らが住んでいた集落のことを指します。

1948年後半、中国大陸での国共内戦の状況が悪化し、中華民国政府は中国各省から兵士や民間人を台湾へ政治的に移住させ始めました。

1949年末には政府機能を台北に移し、移民の流入がピークに達しましたが、その多くは、軍人、政府関係者、教師などで、その規模はおよそ150万人。その当時の台湾の総人口の25%に迫る勢いだったそうです。

そのため、この人々をどのように再配置するかが大きな問題でした。

そこで政府は、既存の宿舎だったり、各地の学校や、廟、倉庫、工場の部屋などを仮住まいとしました。また、軍隊が駐留しているエリアや、都市周辺にも宿舎を建設し、軍の種類、階級など、職業や任務に応じて宿舎を割り当てました。

そんな、中国大陸から国民党政府と共に台湾に渡ってきた“外省人”と呼ばれる、軍人や公務員らが計画的に居住させられていたエリアのことを「眷村」と言います。

もっと狭い定義では、軍が建設し、管理する“軍用村”を指しています。

かつては、800以上もの「眷村」が、直轄市や省や県といった“政治的中心”もしくは、“中心都市”に分布していました。

「眷村」の発展は、大きく4つの時期に分けられます。

まずは、1945年から1956年の“旧・眷村時期”、そして1957年から1980年の“新・眷村時期”、1980年から1997年の“旧・眷村建て替え時期”、そして1997年から現在に至る“新・眷村建て替え時期”─。

初期の眷村には2種類あって、1つは日本時代に建てられ残された日本式の宿舎。

日本式の宿舎は、工法も材料の面でも一定の基準を満たしていて、空間の構造が完全で、居住するための品質として良かったため、このタイプの宿舎は、最初に台湾に渡ってきたグループが使用していました。そしてのちに階級の高い人たちが住む住宅となり、“将官住宅”と呼ばれていたそうです。

そしてもうひとつは、1949年以降、多くの人が台湾に渡ってきたため、家が足りない状況になったことから、軍隊が駐留しているエリア付近やその他の辺境の土地に、竹や藁、泥などを使って、自分たちで建てた簡素な家が集まる集落。あまり建物の工法やスペースの使い方に配慮していないのですが、それはあくまで“仮の住処”だったからだと言われています。

というのも、当時、眷村では、中国大陸に向け、「1年で準備し、2年で反攻、3年で掃蕩し、5年で成功」をスローガンに掲げていたため、長くここで生活することは想定していなかったようです。

しかし、1956年5月、眷村の婦人たちによる組合が、貧弱な住宅問題を解決するために構想を提出します。

そのころは「中国大陸への反攻」はいつになるか予見できなくなってきていたことから、定住の地として、住宅の質を改善すれば、軍人も国民も安心して過ごすことができるとして、婦人たちが立ち上がりました。ここから“新・眷村時期”に入ります。

この時期に建てられた建物は、長く居住することを考え、使用する建材も比較的強固なレンガや瓦、木、鉄筋コンクリート造りで、空間も軍の階級に応じて7.5坪から12坪とグレード分けされました。

ただ、各家のスペースが足りないため、家にはリビングと部屋といった生活スペースしかなく、キッチンとトイレやバスルームは、コミュニティー内の共用施設となっていました。

住民にとっては、居住人数に対して、スペースの割合は狭いのですが、それでも生活環境は以前と比べてよくなり、より“家”という意識も強くなりました。

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最初は、“仮の住処”だった眷村が、定住の“家”と変わっていきましたが、1980年代に入ると、初期に建てられた眷村はすでに老朽化、人口増加に伴い自ら増築していたりして、建物の安全性や、治安の問題などが起こり始めます。

眷村がある地域は、開拓地から振興開発地へと地域の発展と共に進化してきたため、住宅の景観が周辺の街並みと調和しておらず、都市再生や土地の経済的利用にも影響を与えていました。

そして、土地開発や建て替えなどが進み、多くの眷村で建物の取り壊しが行われていきました。

しかし近年、各地で、眷村を「歴史的建築物」として保存をしたり、リノベーションして新たな活用をし、観光地として生まれ変わったりしています。

台北市内でも、街の中心部、信義区に「四四南村」という場所があります。ここも信義計画区の土地開発と眷村の建て替えに伴って1999年に住民が全て退去し、建物は取り壊しの運命にありましたが、台北市が建物の4棟を保存し、リノベーションして、現在は、眷村文化公園として親しまれています。

台北のランドマークである超高層ビル、台北101と共に、歴史と現代感が共存する独特の風情を醸し出していますよ。

台湾の歴史を語るものの一つである眷村文化。ぜひ機会があれば皆さんも触れてみてください。

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