:::

Rti 台湾国際放送Rti 台湾国際放送ようこそT-roomへ - 2021-03-10_台湾における国勢調査、いつから始まるか

  • 10 March, 2021

 リスナーの皆様は、中華民国台湾の人口はおおむねどれくらいかご存知でしょうか。答えは「2350万人」です。行政院内政部戸政司の統計によりますと、今年2021年1月の時点の速報値は、2354万8633人でした。台湾ではざっくりと「2300万人」と言われることも多いです。

 では、台湾では、いつぐらいから正確に人口を把握するようになったのでしょうか。それは日本統治時代の1905年に行われた国勢調査からでした。そして、この国勢調査は、いわゆる日本の内地よりも早く、東アジアで最も早く行われたんです。

 2月の末、台湾の公共テレビのドキュメンタリーで、台湾における国勢調査、統計に関する特集番組が放送されました。普段は台湾の「今」に関する様々な話題をとりあげるこのコーナーですが、本日はこの番組内容の中から、台湾における国勢調査がいかにして始まったのか、また中々知ることができないその調査結果についてご紹介したいと思います。

 1895年、日清戦争後、台湾は日本に割譲されました。しかし、日本人は、台湾の多様なエスニックグループ、言語、文化について不案内でした。各地で抗日運動が発生、巨額の金銭と兵力を使うも、抑え込みは難航し、一部の人たちからは、台湾を売り払ってしまえ、という声も出てくるほどでした。

 しかし、そうした声と共に、西洋で近代的な知識を学んだ人たちは、欧米諸国では数年に一度、大規模な国勢調査を行い、国の人口、社会の状況を把握することで、これを施政の拠り所としていることから、台湾でも国勢調査を進め、全面的な分析、統計をとることで、ふさわしい統治方法をみつけられると主張しました。

 代表的な人物の一人が、当時、台湾総督府で民政長官をつとめていた後藤新平でした。後藤新平は医学が専門でしたが、ドイツ留学時代に統計の重要性を痛感、「統計マニア」となり、よく統計局を訪れていました。後藤の統計に対する理解の深さは現地でも認められ、1890年にドイツで初めて国勢調査が行われた際には、統計局長から招待されたほどでした。

 後藤新平は政府に国勢調査の実施、統計局を設置するよう進言しました。しかし、政府はお金と手間のかかる国勢調査に乗り気ではなく、東京統計協会など民間の人々が圧力をかけ、1902年、ようやく国勢調査法が可決しました。 

 後藤新平は1903年、国勢調査実施にあたり、東京統計協会から実務役を指名します。それが水科七三郎(ミズシナ・シチサブロウ)でした。

 水科は1903年12月に台湾にやってくると各地へ統計視察旅行を行いました。そして、およそ2年掛けて、各方面の綿密な調査のほか、調査員の訓練、調査票の作成準備などを行いました。

 そして、1905年、ついに台湾で、国勢調査が行われました。実は日本政府は台湾だけでなく、日本全土で国勢調査を行う予定でしたが、日露戦争における混乱もあり、実際に日本のいわゆる「内地」で初めて国勢調査が行われたのは、それから15年後の1920年のことでした。

 台湾における大規模な国勢調査は、当時の大日本帝国において、初の国勢調査であっただけでなく、東アジアにおいても初めての国勢調査でした。「国勢調査」という名称は、台湾の人々には馴染みにくい事から、清朝の時代の類似の調査の名称に合わせ「台湾戸口(ここう)調査」という名前で実施されました。戸口(ここう)は、とぐちと書きます。

 調査項目は22から24ほどあったということですが、多様なエスニックグループ、内地とは異なる歴史背景をもつ台湾での国勢調査とあって、内地にはない調査項目も加えられました。それが、種族、常用語、アヘンの習慣、纏足などです。

 種族は、福建省の潮州をルーツとする人たち、同じく福建省の泉州をルーツとする人たち、広東省をルーツとする客家の人たち、そして漢民族化した原住民族の人たちと、原住民族の人たちという形で分けられました。

 当時の調査員は、警官でした。日本による統治が始まってまだ10年、大部分の人たちは日本語が通じないため、調査にあたっては、主に台湾語や客家語による会話集もつくられました。当時の警察の日記からは、庶民は警察に恐怖感を抱いており、国勢調査という名目であっても緊張していたことが伺えるそうです。

 そして、2年の月日をかけ統計の集計が行われ、1907年、報告書が出来上がりました。結果をご紹介しましょう。

 台湾の人口は303万9751人でした。地域ごとの人口の割合は北部が30.9%、中部が30.4%、南部が35.2%、東部が1.6%、離島の澎湖が1.9%でした。現在は北部がおよそ4割を占めますので、当時と現在では、北部、南部の人口のバランスが逆だったことがわかります。ただ、都市別では台北市街が7万人あまりで最も多く、これに続くのが台南市街で、5万人あまりでした。

 台湾全体では23種類の言語が使われており、福建の言葉を使っている人が84.5%、広東の言葉が11%、日本語が1.9%、原住民の言葉が1.4%、その他が0.6%でした。なお、日本語の読み書きが出来る人は、全体のわずか2.38%でした。

 水科は、公正な立場を再三強調する統計の専門家でしたが、それでも植民政府の統計家という側面はありました。その最たる例が、教育程度の評価について、日本語のカナの読み書きを基準とした点です。その結果、清朝の時代のインテリ層は、日本語が出来ない事によって教育程度が「低い」と評価され、その一方、公学校に通っていた7、8歳の子供の教育程度が「中」程度と評価されることにつながりました。

 ちなみに、台湾の女性で纏足をしている人は全体66.6%に達しましたが、このうち福建をルーツとする女性は全体の68%に達したのに対し、広東ルーツの人は1.55%、原住民の人たちは0.54%でした。そして、職業の数は全部で4299と、4000以上に達しました。こうして、台湾総督府による「数字による管理、統治の時代」が始まったのです。

 また、事前調査及び国勢調査では、社会問題も明らかになりました。その一つが盲目の人の多さです。その多くが結膜炎の悪化や、母親が妊娠時に淋病にかかっていたことなどが理由であったことから、当局に、出産時の衛生環境改善を申し越しを行ったことで、改善が見られました

 その後も、総督府は国勢調査の結果をもとに、特に環境、衛生の改善を重視、産婆さんを制度化をした1923年以降、新生児死亡率は大きく低下、結果、日本統治時代に人口は安定的に成長し、1940年には643万に達しました。

 戦後、台湾が中華民国となった以降も、10年に一度、国勢調査は行われています。戦後直後は逆に人口爆発による食糧増産の政策、出生率抑制などの政策の為の貴重な参考となりました。そして、現在もなお、統計は国、地方自治体の施政決定の為の大きな拠り所となっています。

 

Program Host

関連のメッセージ