先週、5月9日、台湾のベテランコメディアン“脫線”こと、陳炳楠さんが亡くなりました。88歳でした。
昨年、このコーナーでもご紹介したことがあるので、覚えている方もいらっしゃるかもしれませんね。
レンズなしの丸眼鏡に大きな革靴、短いネクタイ、チャップリンハットが特徴の人気コメディアンで、晩年は台湾東部・台東で牧場を経営し、新たな観光事業を成功させ注目を集めていました。
その経歴を改めてご紹介すると、1933年10月10日、台湾北部・新竹に生まれた陳炳楠さん。家は貧しく、父親はより多くの収入を得るために自ら兵士に志願しましたが、まだ戦争が始まる前に、父が乗った船が沈没し、それ以降、消息が分からなくなってしまいました。その時、陳炳楠さんはまだ9歳。しかし長男だった彼は、小さく細い体で母親を手伝うようになりました。
そして13歳から自動車整備の見習いをし、兵役を終えた後、当時まだ珍しかった運転免許証を取得して、後に映画会社の運転手を務めるようになります。
ある時、大雨の中、ワイパーが壊れてしまい、窓から頭を出して運転したことがあり、それを見た俳優たちが、冷や汗をかきながら「本当に“脱線”しているやつだ」と言っていたというエピソードもあります。
そして、時折、役者不足から、監督から出演を頼まれるようになり、よく監督から叱られていたことから「脱線」という芸名で活動を始めました。
映画に出演し始めると、次第に人気となり、100本近い映画に出演し、50枚以上ものお笑いレコードを収録しています。
そして1968年、中国電視公司(略称:中視/CTV)が開局すると、100本近いテレビドラマや、コンサート、レストランショーに次々に出演しました。
中でも、台湾の人たちにとって印象深いのは、彼が10数年にわたって司会を務めた「今日農村(今日の農村)」という、農家の人々を対象に、重要なメッセージを伝える番組。
番組開始当初は、台湾語での放送だったそうですが、後に、当時の新聞局より、他の番組同様に標準中国語で放送するように言われ、出演者は標準中国語を話さなくてはならなくなり、陳炳楠さんはとても苦しんだそうです。その後、農家の人々が当時の蒋経国・総統に陳情し、台湾語での放送が復活したということもあったそうです。
このように、早くは白黒映画の時代からカラーテレビ、舞台のトークショーまで様々なシーンで活躍し、台湾を代表するコメディアンの一人として40年以上にわたって活躍しました。
芸能界の酸いも甘いも見てきた陳炳楠さん。
1993年、60歳の時に表舞台から去ることを選択し、1994年にセミリタイア状態で台湾南東部・台東に移住。第二の人生をスタートさせました。
別に出身地でもない台東への移住に、当初、台東の人々は、「台東は誰も来たがらないのに、“脱線”はやっぱり“脱線だ”。3か月もしないうちに全てを失って、パンツ一丁で台北に帰るよ」と笑っていたそうです。
しかし、陳炳楠さんはあきらめませんでした。でも、台東に移住してからの数年は苦労続きで、当初、2000本の椰子の苗を植えましたが、残ったのはたったの2本。今度はパパイヤ栽培に切り替えるも、病気になってしまい収穫できませんでした。
そこで、「栽培はダメだ、飼育に切り替えよう」と、100頭近い台湾ヤギを育て、自分で草を刈り、餌を与え、小屋も作りましたが、結局、これも失敗に終わりました。
その時、50年近い芸能人生で貯めたお金を使い果たしただけでなく、さらに5000万元の借金を抱えていたそうです。
既に70歳になっていた陳炳楠さんは、友人の勧めもあって、思い切って農協からお金を借り、鶏を育てることにしました。養鶏も簡単ではなく、苦労して育てた鶏ですが、鶏肉業者はえり好みをするので、陳炳楠さんは、自身で売ることにし、ロスを少なくして利益を得ていきました。
転機は1999年、台湾で921大地震が起きた際、陳炳楠さんは自身が育てた鶏を持って、当時の台中県の東勢鎮に災害救援に行ったことがメディアで報じられ、人々の“脱線”の記憶がよみがえり、“脱線”を見るために台東に人が押し寄せるようになり、彼が育てた鶏も大量に売れるようになりました。
そこから、「脫線休閒牧場(“脱線”レジャー牧場)」を作り、ブランド鶏を育て、今ではレストランでも見かける有名ブランドとなっています。
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2018年、85歳の時に借金も完済。ところが、その年の3月、健康のためと、友人が好意でくれた健康ドリンクのようなものがきっかけで体調を崩し、その後、腎不全になって肺炎を引き起こし、45日間の入院を余儀なくされたこともありました。
一命はとりとめたものの、この体調を崩したことで、牧場の責任を息子さんに任せることにしました。
昨年(2021年)は、新型コロナの影響で「脫線休閒牧場」も休園することとなりましたが、スタッフを無給休暇にするのは耐え難いとして、陳炳楠さんは息子さんと一緒にネットでのライブ配信を始め、「脫線休閒牧場」の露出を増やし、製品の販売を続けることで、スタッフを引き続き働けるようにしました。
87歳にしてネットのライブ配信を始めた陳炳楠さん。“最高齢のライブ配信者”という新たなステージにもチャレンジし、現役時代を知らない若い新たなファンも獲得していましたが、肺炎などによってこの半年間で2度、入退院をしていました。
しかし、亡くなる3日前にも、フェイスブックでカラオケを歌う姿をライブ配信しているなど、元気な様子をみせていましたが、5月9日夜、自宅で夜ご飯を食べた後、急に具合が悪くなり、ベッドに横になって休んでいるとすぐに意識を失い、消防隊が現場に到着した時には既に息を引き取っていました。
彼が亡くなった後、オフィシャルフェイスブックページには、彼が生前に遺したメッセージがアップされました。
そのメッセージには、ファンのみんなへの感謝のメッセージと、このファンページで交流を続けて欲しいこと、そして「自分の任務は完了した。天国には5GもWi-Fiもない、あとは任せたぞ」との家族へのメッセージがつづられていました。
またフェイスブックでは、芸能関係者を始め、文化部などからも哀悼のメッセージが書き込まれています。
隣に住む陳さんは、「彼は初めて台北からここに移住してきた人物。こんなにも有名な人が台東にきて、台東の地方にもたらした影響は本当に大きい」と語っていました。
彼の家には、地元の政治家や、企業の台東エリアのトップらからもたくさんの花が届いていて、陳炳楠さんが台東の人たちにもとても愛されていた様子がうかがえます。
かつて120歳まで生きる!と言っていた願いは叶いませんでしたが、“脱線”の人生は、台湾の人たちの記憶にしっかりと残っています。