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台湾ミニ百科(2021-12-08)彭婉如氏:血と涙で女権の進歩と引き換えた女権運動家

  • 08 December, 2021
台湾ミニ百科
(写真:財団法人彭婉人文教基金会よりスクリーンショット)

1.「彭婉如・女史殺害事件」ー台湾の女性権利改善のきっかけ

台湾初のストーカー防止法が今月1日、蔡英文・総統が署名した後に公布されました。6ヶ月後に施行される予定です。

この法律では、相手に恐怖感を抱かせ、相手の日常生活や社会活動に影響を与える行為を、持続的にあるいは繰り返して行うことが禁止されます。違反した場合は、最高で5年以下の懲役、または50万台湾元(およそ日本円204万円)以下の罰金に処されます。また、予防のための身柄拘束が可能となります。

蔡英文・総統は、「この法律があれば、政府は早期の段階で介入し、被害を防ぐことが可能になる。」と話しました。さらに、蔡・総統は、25年前に殺害された女性政治家、民進党の彭婉如・女史のことに触れ、「今日に至っても、ジェンダーに基づく暴力と家庭内暴力の脅威を受けている女性は非常に多い。今年の11月30日で、彭婉如・女史の殺害事件から25年となった。この事件がきっかけとなって、社会は女性の安全保障を重視するようになり、関連法案も次々と制定されたが、私達には必ずまだ何かできることがある。これまでよりも良いやり方があると私は信じている」と述べました。

蔡・総統が言っていた、彭婉如・女史の殺害事件は、台湾における女性の権利の改善に大きな影響を与え、今も多くの台湾人の印象に残っている事件です。

彭婉如・女史は、1996年、当時台湾の最大野党、民進党の女性に関する政策の制定、女性の政治参加の推進を担う部署、婦女発展部の主任でした。1996年11月.30日、彭婉如・女史は同党の友人との食事会のあと行方不明になり、その3日後、台湾南部・高雄市の果樹園で無残な遺体で発見され、台湾社会を大きく驚かせました。

事件が発生してから今年で25年が過ぎましたが、未だに犯人を特定することができないため、彭婉如・女史の死は、台湾史上の3大未解決事件の一つとなりました。

この事件の影響で、女性の身の安全が重視されるようになり、女性の権利を保障するいくつかの法律が可決されました。台湾の女性の権利は、彭婉如・女史の血と涙と引き換えに、大きく進歩したのだと言われています。

2.彭婉如・女史の一生

(1)教職から女権運動家へ

彭婉如・女史は1949年、台湾北東部、新竹市で生まれました。大学では中国語を専攻、卒業後は中学校や高校で教鞭をとり、熱心に教育活動を行っていました。

彭婉如・女史が女性解放運動に興味を示すようになったのは、1985年、アメリカへ留学する夫に付き添って渡米したことがきっかけでした。アメリカに滞在している間、彭婉如・女史は雑誌社で働いていました。この仕事を通して、彭婉如氏はアメリカのフェミニズム運動の歴史に触れ、そこで啓発を受けたということです。

1988年、夫の学業が終えて台湾に戻った後、彭婉如・女史は積極的に女性解放運動に取り組みました。1988年から1993年までの間、彭婉如・女史は婦女新知基金会、台北市婦女救援基金会、台湾主婦聯盟など、数々の民間女性団体の幹部を歴任し、小中学校の教科書における性別役割分業の描写に対する注意を呼びかけ、児童買春の撲滅、離婚女性向けの相談体制の構築などにも力を注ぎ、女性の境遇の改善に余念はありませんでした。

(2)「婦女参政四分の一保障条約」を提案、ニックネームが「彭4分の1」に

1993年、彭婉如・女史は43歳の年齢で再び渡米し、わずか1年で、女性学専攻の修士の学位を取得しました。台湾に戻ったあと、彭婉如・女史は女性の処遇を制度面から全面的に改善するには、政界に身を投じるしかないことと、女性が自分たちの運命を決められるよう、女性による政治参加を推進することが重要であることを十分理解していました。

そのため、彭婉如・女史は当時の最大野党、民進党に参加、1995年5月から、民進党における、女性に関する政策の制定や、女性による政治参加を促進する部署、婦女発展部の主任を務め、「婦女參政四分之一保障條款(婦女参政四分の一保障条約)」を民進党に提案しました。

「婦女參政四分之一保障條款(婦女参政四分の一保障条約)」というのは、地域や選挙区を問わず、選挙のとき、候補者に四分の一の女性枠を設ける制度を導入することを主張する条約です。これを通じて、政治における男女共同参画を実現するのが狙いです。もちろん、4分の1では、まだまだ女性の人口の割合を反映したとは言えませんが、それまでの台湾の政界における女性の確定枠は、わずか10分の1しかなかったので、この条約は、台湾のジェンダー平等のマイルストーンと言えます。

この条約が民進党の党員代表大会で可決されるよう、彭婉如・女史は党員一人ひとり説得して回りました。その頑張る姿と、どうしても可決させようとする意思の強さを見て、人々は彭婉如・女史のことを「彭四分の一」と呼び、揶揄しましたが、彭婉如・女史はこのあだ名に対して、「どうせなら、彭二分の一になりたいな」とただ笑っていたそうです。

(3)事件発生
いよいよ1996年12月1日、民進党の党員代表大会が行われる日となりました。この日のために、長く努力してきた彭婉如・女史は、何故か会議の開始時間が過ぎても、姿を現せませんでした。不審に思った党員たちが急遽彭婉如・女史の夫と警察に連絡してみたところ、彭婉如氏はその前日の夜、11月30日に党員との食事会の後、タクシーに乗り込んだきり、消息が途絶えてしまったことがわかりました。それからさらに2日が過ぎた1996年12月3日午後、彭婉如氏は南部・高雄市にある果樹園で、全裸の遺体で発見されました。発見された時、その全身に35カ所の切り傷があり、右目を失われているという、とても悲惨な姿となりました。推定死亡日は11月30日。彭婉如氏が乗っていたタクシーの運転手に容疑があると思われていますが、当時の技術の制限で監視カメラに映っていた画像は解像度が低く、DNA型鑑定技術も精度が低いため、犯人の特定は非常に難しかったです。
事件から20年後、2016年11月30日、彭婉如・女史殺害事件は公訴時効が満了しました。法律上では、もはや犯人を断罪することが不可能になりましたが、この事件の捜査を担当する警察官は、「犯人を突き止めるまで、絶対諦めない」と断言しました。

3.彭婉如・女史とその殺害事件の影響
彭婉如・女史の死により、台湾における女性の安全と女性の権利がさらに重視されるようになりました。

まず、彭婉如・女史が生前、最も力を入れていた「婦女参政四分の一保障条約」は、彭婉如・女史が参加することを叶えなかった、1996年の民進党の党員代表大会で可決されました。

同年の12月21日、台湾中の30組以上の民間女性団体が発起した連署により、彭婉如・女史が殺害された11月30日は「台湾女権の日」と制定されました。

12月31日、台湾の国会に相当する、立法院はセクハラに関する法律『性侵害犯罪防治法(セクハラ犯罪防止法)』を可決。内閣に相当する行政院は1997年3月に「ジェンダー平等教育委員会」を結成、男女平等を推進する授業を行うよう各学校に要請しました

1997年5月1日、彭婉如基金会が立ち上げられました。この基金会は、ジェンダー平等と女性の身の安全の保障を推進することを主軸に、活動を展開しています。

(編集:曽輿婷/王淑卿)

 

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