ここ2~3か月、台湾では各界で活躍してきたベテランの方が亡くなるニュースが続いています。
台湾のラジオ界でもベテランパーソナリティ“良山兄(りょうさん兄さん)”こと、陳合山さんが5月18日に亡くなりました。82歳でした。
ラジオパーソナリティであり、歌手でもあった“良山兄”は、戦後、ラジオ界に50年近くに渡って携わってきた、ラジオ界の非常に重要な人物です。
“良山兄”は、1941年、台湾南部・台南市新營区の出身。
小さい頃から歌を歌うのが好きで、よく地元の川、集水溪で歌の練習をしていたそうです。そして、学校の課外授業などでもチャンスを見つけては歌っていました。
中学校を卒業後、歌を歌いたい一心で台北へ行き、歌舞団に加入。全国を公演で巡っていました。
17歳の時、戦後の台湾の第一世代のスター、吳晉淮に弟子入りし、ギターと歌唱技術を学びました。しかし、劇団でのキャリアは兵役のため終了せざるを得ませんでした。
退役後、1960年には「建國電台(建國ラジオ)」、1961年には「正聲岡山台(正聲岡山ラジオ)」の歌唱コンテストで優勝。
金星唱片(金星レコード)のオーナーに招かれ、1965年に「歹命的阿狗兄(“悲しき運命のイカした兄さん”…とでも言いましょうか)」をリリースすると一大ブームが巻き起こり、“良山兄”として一躍有名となりました。
そして「風流的阿狗兄(颯爽としたイカした兄さん)」など、“阿狗兄(イカした兄さん)”シリーズを発売。金星唱片を離れた後、皇冠唱片(皇冠レコード)でリリースした「何時再相會(いつ会えるのか)」で音楽界での彼の地位を確実なものに。そしてその後も、様々なレコード会社で多くのアルバムのリリースをしてきました。
“良山兄”の活躍は歌手としてだけではありません。“良山兄”がラジオ業界に携わったのは50年余り。1966年、当時のラジオ界のスター、陳三雅に気に入られ、台湾北部・台北市の華聲電台(華聲ラジオ局)で、「良友樂園(仲良しパラダイス)」という番組のパーソナリティを務めることとなりました。
歌の価値を深く知り、それを解釈するラジオの仕事は、彼の歌声と同様に、リスナーを惹きつけ、同時、ラジオ全盛期の“トップパーソナリティ”となりました。
ただ1968年、テレビの普及によりラジオの人気が低下したため、“良山兄”は、高雄へ移り住み、高雄のホテルで歌いながら、鳳鳴電台(鳳鳴ラジオ局)で、「司機俱樂部(ドライバーズ・クラブ)」という番組のパーソナリティを務めました。
この番組は、“良山兄”の独特の語り口に加え、番組でリスナーからの悩みを解決したことなどからリスナーからとても愛され、当時最も有名なラジオ番組となりました。
そして、1994年に「第43屆廣播電視節(第43回ラジオ・テレビ・フェスティバル)」で表彰された他、2003年には、「中華文化復興運動總會(現在の中華文化総会)」からも表彰を受けました。
更に2016年には、「中華民國廣播商業同業公會(中華民国ラジオ同業組合)」から優れたベテランラジオパーソナリティ賞が贈られ、2018年には、台湾版エミー賞と呼ばれる、ラジオ・テレビ番組賞、「第53屆廣播金鐘獎(ラジオ金鐘獎/ゴールデンベルアワード)」で、特別貢献賞を受賞しています。
そのような経歴から、“良山兄”は、「廣播教父(ラジオ界のゴッドファーザー)」と呼ばれていました。
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長きにわたって台湾のラジオ界で活躍してきた“良山兄”こと陳合山さん。亡くなった5月は、台湾で新型コロナの感染が拡大していたことから、家族は公に葬儀や告別式を行わないことを決め、亡くなって数日後の5月23日に自宅で芝生コンサートを開き、“良山兄”の活躍を振り返りました。
そして先ごろ、国に多大な貢献をした国民を政府が讃える「褒揚令」が贈られ、蔡英文・総統に変わって、文化部の李永得・部長から“良山兄”の夫人、黃金葉さんに手渡されました。
李永得・部長は、“良山兄”は60年近くに渡ってラジオ放送の継承と普及に尽力してきた。台湾語を使ったラジオ放送の普及が容易ではなかった時代から番組の制作に全力で取り組んだ、台湾語によるラジオ放送を発展させた重要な人物だと紹介しました。
当時、故郷を離れて懸命に働いたり、苦学していたリスナーたちの“夜のパートナー”だった“良山兄”─。彼が亡くなったニュースに、当時リアルタイムでラジオを聞いていたリスナーたちは、懐かしさがこみあげてくるのと同時に、一つの歴史が終わったと悲しんでいます。