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馬場克樹の「とっても台湾」-2022-09-18_もう一つの“湾生回家(湾生帰郷)”

  • 18 September, 2022
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馬場克樹の「とっても台湾」(爸爸桑的「非常台灣」)

<第1セクション:湾生兄妹の帰郷を手伝う。手掛かりは二つ。住所と恩人の名>

数年前にドキュメンタリー映画『湾生回家』が上映された。2015年4月。縁あって私もある「湾生」ごきょうだい、河内洋輔さん、青野マスミさんの70年ぶりの里帰りに同行することとなった。2人の出生地は高雄の旗山。バナナの名産地だ。お2人からは2つの願いが寄せられていた。かつて住んでいた場所を探し当てること。終戦の混乱期に2人の家族を暴徒の襲撃から逃してくれた命の恩人「チンホウシュウ」さんの消息をたどることだった。1945年8月15日深夜から16日未明にかけて、日本人を狙った暴動が発生。警察官の父親はフィリピンに出征中で不在、母親と幼い2人でなす術もない中、風呂場の窓から3人を救出し、トラックの荷台に乗せて港まで送り届けてくれたのが「チンホウシュウ」さんだった。逃げる途中で振り返ると、先ほどまで住んでいた官舎は炎に包まれていたという。母親は自害も覚悟したというから、まさにギリギリの救出劇だった。

<第2セクション:70年前の居所と恩人の子孫が見つかる>

旗山在住の学習塾経営者で郷土史研究家の湯茗富さんのご尽力で、ごきょうだいの住んでいた場所が特定された。2015年4月27日。湾生ごきょうだい一行を乗せたワゴン車は、高雄から一路旗山へと向かった。旗山では黄伯雄区長(当時)を表敬訪問した。黃区長は、お2人の70年ぶりの “帰郷” を温かく歓迎し、戦前の官舎付近の神社や公園の古い写真を見せてくださった。続いて、区の戸籍事務所に湯さんは案内してくださった。一家4人の名前が記載された日本統治時代の戸籍謄本の写しが、手渡されると、2人とも感極まった様子だった。サプライズはこれだけでは終わらなかった。湯さんは「チンホウシュウ(陳芳洲)」さんのお孫さんの陳鋕成さんのご自宅まで案内してくださった。湾生ごきょうだいの2人は陳鋕成さんに深々と頭を下げた。

<第3セクション:大団円のきょうだいの湾生帰郷>

70年ぶりの里帰りは大団円となった。ごきょうだいは日本に帰国後、手記や新聞のインタビューでも感謝の気持ちを表している。私も傍らで見ていて何度も目頭が熱くなった。惜しむらくは、撮影チームも同行してドキュメンタリー映像として記録を残せなかったこと。何年たっても色あせることのないこの物語を、せめて手記として、また音声として残しておきたいと思った。

※今回の放送は多言語ウェブ雑誌『nippon.com』に記事として掲載したものを、ラジオ番組用に音声で編集し直したものである。元記事のリンクは以下の通り。
「手記:命の恩人チンホウシュウさんを尋ねて――ある「湾生」兄妹の帰郷」:https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00880/

今月の歌『蝶の河』(八得力樂團)

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